【かまいたち山内、育毛治療に月14万円「生えてきたのは耳毛だけ」】系クラブチームの左大文字ラクロスクラブは5月8日、伏見桃山運動公園にて行われた交流戦にて第1試合は引き分け、第2試合は敗北した。(逆光なのは知りつつもお城をバッグに撮りたかったオジサンの希望を叶えた写真です)
ゴールデンウィークですっかり暇を持て余したメンバーたちは満を持して桃山城に集合した。
この日ゲストで来てくれたのは宇田氏の会社の同僚である松由氏だ。
ラクロス経験はないものの、マネージャーに興味があって見学に来てくれたとのこと。
女気の全くなかった当チームに久々の女性マネージャー誕生となるか?こうご期待である。
快晴の空の下グラウンドメイクにいそしみ、第1試合はオフィシャルに臨んだ。
人数が多いのでなんとオフィシャルは前半後半と二手で分かれて行うという左大文字らしからぬ珍事が発生した。
時間がないからと第1試合の前にアップを行い、第2試合のvsかぶとむし戦に挑んだ。
さてさてかぶとむし戦であるが、「昨年度いっぱいで関大のコーチをクビになった」(本人談)梅田氏が先制するものの2点をとられ逆転されてしまう。
続く第2Q、先ほどに続き梅田氏が得点、さらに福田氏が得点し1点をとられ3対3となり引き分けた。
続くOLC戦ではゴール裏からのまくりで宇田氏が得点。
1-1となりさらに福田氏が得点したと思いきや直後のクロスチェックにひっかかり得点は無効となった。
続く第2Qでさらに宇田氏が追加得点。
だが2点をとられ2-3でゲームセットとなった。
宇田氏の教え子の永田氏は「普段はほとんどこのパターンで取れないのに女性が見てるとなるとさすがですね」と褒めたたえていた。
結果
第1試合 vsかぶとむし 3-3 引き分け
得点者 梅田×2、福田
第2試合 vsOLC 2-3 負け
得点者 宇田×2
出場者(順不同)
大槻、松本、宇田、岩田、志水、小林、福田、田村、伴仲、近谷、三木、中村、田中、舟橋、野尻、山本、宮田、佐々木、梅田
■今週の読書室 永野健二『日本迷走の原点 バブル』新潮社
アマゾンのおすすめに出てきたので買ってみた。
筆者は日本経済新聞の記者で、バブルを象徴するひとつひとつの事件を地齋携わった記者の視点から述べている。
例えばp.109『「三菱重工CB事件」と山一証券の死』から抜粋しよう。
↓以下抜粋
1986年9月(中略)私は山一証券副社長の成田芳穂と向き合っていた。
(中略)「山一証券は腐っている」
しばらくの沈黙のあと、充血したようにも見える目を見開き、彼は切り出した。
「何が腐っているのですか」という私の問いに、「何もかもだ。横田社長には辞めてもらわなくてはいけない。植谷会長にも退任してもらう」と答えた。
エキセントリックな調子で語り続ける成田の表情は、私がこれまでに見たことのないものだった。
「二人に退いてもらうとして、一体、だれが社長になるのですか」
そう聞き返すと、
「私だ」という答えが返ってきた。
(中略)
法人の山一と呼ばれる山一証券の中で長く法人担当を務め、筆頭副社長として経営全般を統括する立場にあるのだから、社長候補だと言われても不思議ではない。
しかし、周囲にそう思わせるカリスマ性は皆無だった。
社内にも社外にも、成田待望論は広がっていなかった。
もちろん、植谷にも横田にもそうした気持ちはなかった。
「この人は社長の器ではない」という評価が、いつしか私の頭の中にもこびりついていた。
「社内が腐っているのなら、具体的なケースで話をしてください」
私は杓子定規に質問を投げ返した。成田は口をつぐんでしまった。気まずい別れだった。
これが生前の成田芳穂にあった最後である。
あとになって考えてみると、このときすでに成田の心のなかでは、正攻法の経営改革ではなく、スキャンダルをもって植谷と横田のポストを奪い取る考えができ上がっていたのだろう。
彼の鞄の中には、三菱重工業の転換社債(CB)の総会屋への割り当てリストが入っていた、と思う。
翌87年1月16日、成田は物置で死んでいるのを発見される。
その日の午後5時に、東京地検特捜部の検事、田中森一が成田を事前聴取する予定だったと読売新聞は伝えている。
総会屋への利益供与疑惑を調べるための呼び出しだった。
↑抜粋終わり
終始このような感じで、バブルの総括に関する記述は少ない。
ただし第2章にプラザ合意についての記述がある。
80年代以降貿易赤字と財政赤字に苦しむ米国は「強いドル」を放棄せざるをえなくなった。
貿易赤字の主要たる標的にされたのは日本円と西ドイツマルクである。
85年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでのG5会合後にプラザ合意が発表される。
各国の市場でドル売りが殺到し、通貨当局はドル売りの協調介入を実施した。
日本円、西ドイツマルク、イギリスポンドの主要通貨がわずか1日で5~6%切りあがるという相場になった。円ドル・レートは1ドル=242円から12円の円高になり、1年後には150円台で取引されるようになる。
日本政府、大蔵省、日本銀行、そして戦後日本の復興を担った製造業はこの円高を危機と受け止めた。
「この円高によって日本の輸出産業は大ダメージを受ける。これから大不況になるであろう」という予測をする。
だがこれがそもそもの間違いだった。
p.92「日本のバブル経済の実質的な起点は、間違いなく86年にある。それはプラザ合意以降の円高の過程で、日本の政策当局が日本経済の競争力を過小評価したことにある」
この時点でもうすでに日本経済は外需主導型ではなく内需主導型に転換していた。
だが日本の政策当局にその認識はなかった。
日本は金融緩和に動く。
86年1月から87年2月までの間、公定歩合を計5回、2.5%引き下げた。
円高不況は一瞬で過ぎ去った。
ところがそれからも日本は金融緩和をやめようとしなかった。
プラザ合意後西ドイツは日本と同様金融緩和に動いたが、景気は上向きすぐに金融引き締めに向かったのとは対照的である。
行き場を失った金融緩和マネーは土地と株に向かい始める。
これがバブルの明確な始まりである。
地価は異様な高騰を見せ、東京23区の全ての土地の価格が、アメリカ全土の土地の価格を上回ると言われた。
世界の時価総額ランキングではIBMなどアメリカの超有名企業よりも日本の地方銀行のほうが時価総額が上回った。
庶民の夢であるマイホームが明らかに庶民の手の届かないものとなってから初めて日本は金融引き締めに向かう。
時はすでに遅し、バブルははじけるのみとなってしまった。
地価は永久に上がり続けるという「土地神話」はあっけなく崩壊した。
債券は違法性の極めて高い利回り保証が営業の口約束の下、あるいは社長同席の下平然と行われた。
その債券はバブル崩壊後あっけなく不良債権と化し、不良債権で身動きが取れなくなった銀行に血税が投入された。
それから日本は30年間全く経済成長していない。
2012年度に発足した第二次安倍政権はアベノミクスという金融政策を打ち出した。
レーガノミクスを模倣したこの金融政策の3本の矢の中に大胆な金融緩和というものがある。
この金融緩和により、1万円を下回る水準だった日経平均株価は2万円を超えた。
ところが好景気時に経験則的にみられる緩やかな物価上昇は全くおこらなかった。
日本銀行の黒田総裁は「現在の強力な金融緩和を粘り強く進めていく」と10年近く繰り返してきた。
金融緩和により物価上昇を目指す経済学派をリフレ派という。
日本の『惨状』を見た海外のリフレ派が続々と敗北を宣言し、自説を転換していった。
ところが新型コロナウイルスがやってきた。
アメリカでの経済対策はすさまじかった。
数か月おきに数百ドルの小切手が全国民に配らた。
失業者には通常の失業保険に加え週500ドルのプレミアがつけられ、普通に働いているより失業保険をもらった方が儲かるということで仕事を辞める人が続出した。
(アメリカでは解雇でしか失業保険はおりないが、実際のところはかなりなあなあらしい)
その結果アメリカではインフレ率が7パーセントを超えFRBが急速な金融引き締めを始めている。
ここまできてやっと日本でインフレの気配がみられるようになった。
上海がロックダウンされたことにより半導体が極度に不足している。
さらにウクライナ問題で飛行機がロシア上空を飛べなくなり輸送コストが跳ね上がり、経済制裁によりロシア産の資源が輸入できなくなった。
そして経済制裁を受けているロシアの通貨ルーブルよりも日本円のほうが暴落し、輸入製品は軒並値上げされるようになった。
ところが日銀の黒田総裁はこの段階に及んでも「現在の強力な金融緩和を粘強く進めていく」というスタンスを崩していない。
円相場が暴落し20年ぶりに1ドル=130円を突破しても「円安は日本経済にとってプラス」と発言している。
私には黒田総裁が現状を正しく認識しているとはとても思えない。
そこにプラザ合意以降の日本経済を認識できず、バブルを引き起こした金融当局の姿が重なるのである。
10年間おんなじこと言い続けるだけで年収3000万、日銀総裁っておいしい仕事だなあ。