第652号 今シーズンもお疲れさまでしたの巻

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【25歳差のユーチューバーカップル 彼女が年齢を10歳以上も偽り実際は37歳差だったことが判明】系クラブチームの左大文字ラクロスクラブは11月29日、かぶとむしの今年最終練習に参加させてもらった。
参加メンバーは松本・舟橋・くにお氏というだいたいいつもの3人、合計で13名。
グラウンドの片隅でHELPのメンバーがシュー練をする傍ら、いつもは見ないWILD BOARSのメンバーも交え、人数ぎりぎりで6 on 6大会にいそしんだ。
「これがほんまに最後!」という中お代わりを何度も繰り返し、割と早めの8時半に練習を終えた。
「来年もまたよろしくお願いします」という季節を感じさせる挨拶を繰り返し、メンバーは帰路についた。
今年の練習はこれが最後となる。
ミーティングもないので来年はいつからかまったくもってわからない。
コロナでいろいろあったけど、またラクロスできてよかったな。

■今週のコラム『南米旅行記 パタゴニア編 その1』

今年最後となったので、特に需要もないだろうが毎年恒例(?)旅行記を書きたいと思う。
昔このシーズンは南米を旅していたことを思い出す。
今でもそれは強烈な記憶となって残っている。
それについて書きたいと思う。
南米は二度に分けて3か月ほど旅したのだが、調子に乗って書いていたら到着3日分ぐらいで5,000字を超えていた。
年末特大号としようと思っていたのだが、もはやあまりに長すぎるので続きはまた来年書こうと思う。
飽きてなかったら続き書くわ。
しばらく今週のコラム何書くか悩まんですむぞーやったー。

時をさかのぼること2013年、私は仕事で旅行会社の社長と知り合った。
自分でツアーを作り自分でそのツアーの添乗もしているという。
誰もがするベッタベタな質問をした。
「今まで行った中で一番良かったところはどこですか?」
「パタゴニアやね。南米の」
調べてみればベッタベタなヨーロッパとかではなく途上国というわけでもなく、『雄大な自然』という言葉がふさわしく面白そうだった。
南米のハイシーズンはこちらでいう冬。
翌年1月なら1か月ほど時間が取れそうだった。
行こう。
早速チケットを取った。航空会社はルフトハンザ。フランクフルト経由でブエノスアイレス往復40日間。
35時間かかってブエノスアイレスまで到着した。
初めて行く大陸なので不安だった。
ガイドブックに日本人しか泊まれない宿が二軒ほど掲載されていた。
そのうち一軒に行くことにした。
空港で両替をしよう。
ところがどこの空港にでもあるはずの両替所が一軒もなかった。
ATMがあったのでキャッシングでお金をおろした。
ガイドブックには1ドル=5.5ペソと書いてある。1ドル100円ぐらいだったので、1ペソ17円ぐらいか。
とりあえず1,000ペソおろせば十分だろう。キャッシングでおろした。
バスに乗り『上野山荘』という宿にたどり着いた。
アルゼンチン人の主人と日系二世の夫人が経営している宿らしい。
宿につくなり主人が教えてくれた。
「アルゼンチンはいまドルが不足していてみんな闇両替するんだよ。だいたい1ドル10ペソぐらいかな」

しまった!だから空港に両替所がなかったのか!
私がおろしたのは1,000ペソ、すなわち10,000円分だったのだ!
だがATMは公定レートなので口座から17,000円引き下ろされる。
10,000円をおろすのに手数料を7,000円払ってしまった!
もうこの先アルゼンチンでクレジットカードは使えない。やってしまった!
事前に調べておくべきだった。
リュックを見れば1,200ドルと500ユーロがあった。
チリではおそらくクレジットカードが使える。
これだけの資金でこれから1か月いけそうか?
多分、行ける。根拠はない。よし、行こう!

宿には当然ながら日本人しかいなかった。
これから同じ南に向かうという、大学を休学して世界一周している大学生がいたので一緒に翌日のバスのチケットを買いに行くことにした。
途中白昼堂々街中でおっさん同士が殴り合いのけんかをしていた。
南米は怖い所だなと思った。
彼はチリのプンタアレ―ナスを目指すという。
私は一気に南まで行きたかった。
世界最南端の町、ウシュアイアに行こう。
当時の私は何故か陸路にこだわっていた。
バスも飛行機も値段はほとんど変わらない。
今思えば何故かはわからないのだが。
ブエノスアイレスを19時に出発したバスは翌々日(翌日ではない!)の21時にウシュアイアにつく。
大学生の彼とは同じバスにはならなかった。
翌日宿のみんなが一斉に出発するらしい。
ある人はパタゴニアへ、ある人はイグアスへ、ある人はパラグアイへ。
宿のみんなでパーティをした。
飛行機で35時間揺られ、バスで50時間揺られる。ここから本当の旅が始まる。

アルゼンチンの景色は全く変わらない。
ただ地平線まで続く草原が永遠続いている。
今思えば退屈で仕方がなかったと思うのだが、当日の私はそれを苦とも思わなかった。
ただ全く変わらないアルゼンチンの景色を見ながら、ただ人は何のために生きているのかを考えていた。
それだけで50時間過ごせた。
きっと、スマホがぎりぎりあるかないかの時代だったからよかったのだろう。
今は暇さえあればスマホをいじる。
我々の思考の深さは、きっとただその一生をひたすら思考にささげた2000年前の古代ギリシア人の足元にも及ばないだろう。
我々は地球が丸いことを知っているし、物質が原子からできていることを知っている。
だがそれはただ学校で教えられたというだけで、我々一人一人がそれに気づき発見したわけではない。
きっと、現代人から見たらとんちんかんなことを言っているイオニア学派のギリシア人に何もかなわない。

アルゼンチンは面白い国だ。
もともとの宗主国だったスペインは鉱山資源が取れるアンデス山脈周辺にしか興味がなく、この広大なアルゼンチンの大地を放置していた。
それが変わったのは19世紀、冷凍船が発明されてからであった。
アルゼンチンのこの広大なパンパは牧畜に大変適している。
だがそれをヨーロッパに運ぼうとすれば船は赤道を通れなければいけない。
その間に肉は傷んでしまう。冷凍船はその問題を解決した。
アルゼンチンの牛肉はヨーロッパを席巻した。
ヨーロッパのあらゆる階層の人たちは、アルゼンチンの豊かなパンパで育った牛肉を求めた。
ヨーロッパからは移民が殺到し、混血が多数を占めるラテンアメリカでほぼ唯一の(正確に言えばあとウルグアイもだが)の白人国家となった。
アルゼンチンは世界有数の先進国となった。
『母を訪ねて三千里』はこのころイタリアからアルゼンチンに出稼ぎに行った母親を探す話である。
明治維新以降軍事大国を目指す日本に軍艦を援助した。
東京が地下鉄を作るとなった時、手本としたのはニューヨークでもパリでもロンドンでもなく、ブエノスアイレスの地下鉄だった。
だが戦後アルゼンチンは放漫財政を重ねデフォルトしてしまう。
マドンナ主演『エビータ』はこのころのアルゼンチンを描いた映画だ。
アルゼンチンは先進国から発展途上国へと転落した。
先進国から発展途上国へと転落したのは、現代史上アルゼンチンただ一国である。

たまにバスが休憩をとる。
その間に食事の積み下ろしをするのだ。
ほんの数分だけ車外に出てみるのだが、風景は全く変わらないのに休憩のたびに外気温がどんどん寒くなっていった。
南極は確実に近づいている。

バスはウシュアイアまでは直接行かない。
36時間かけて南米大陸側でアルゼンチン最南端の町であるリオガジェゴスまで行き、そこで乗り換え、チリに入る。
そしてフェリーでマゼラン海峡を渡り、もう一度アルゼンチンに入り、リオグランデで乗り換え、やっとウシュアイアにつく。
途中リオガジェゴスでバスを待っているとき日本人バックパッカー3人を見かけた。
声はかけなかったしかけられなかった。彼らは同じバスではなかった。

ブエノスアイレスに泊まった上野山荘は実は別館だ。本館は実はウシュアイアにある。
昔アラスカからウシュアイアまで徒歩で旅した日本人の若者がいたそうだ。
だが当時のウシュアイアには宿泊施設は全くなく、泊まる場所に困っている若者を警察が見かねて、ウシュアイアに日系一世の移民として住んでいた上野夫妻の家を紹介したらしい。
「また、来ます」
そう約束して若者は日本に帰国した。
その若者は建設現場でただがむしゃらに働いていたらしい。
また、南米に行くために。ウシュアイアに行くために。
だが彼は仕事の最中事故で亡くなった。
労災金がおりた。
両親は労災金をウシュアイアの上野夫妻に寄付することにした。
上野夫妻はその資金をもとに旅人が泊まることのできるよう自宅を改装し宿としたのだ。

バスは遅れに遅れ23時ごろウシュアイアについた。
バスに乗っているだけでパスポートのスタンプがどんどん増えていく。
そこから宿探しだ。
同じバスに乗っていたデンマーク人の兄ちゃんと宿探しに出かけた。
ところがどれだけ当たってもフル。
なんでもイスラエルで兵役を終えた若者はパタゴニアを旅するのが定番コースらしい。
見れば町中でいたるところにヘブライ文字が見える。
ほんの数日前がちょうど兵役の期限で、イスラエルから兵役を終えた若者が大量にやってきたらしい。
「こうなったら警察に頼んで寝かせてもらおうか」と私は言った。
「なんで警察に!?」デンマーク人の兄ちゃんは言った。
日本だと泥酔した人が警察署で寝かせてもらってということはよくあることなのだが、彼は露骨に警察という言葉に拒否反応を示していた。
そういうところにもお国柄が出るのだろう。
上野山荘に行きたかった。
「俺は上野山荘に行く。でもそこは日本人しか泊まれない」
そこでデンマーク人の兄ちゃんと別れタクシーで上野山荘に向かった。
もうご飯もしばらく食べていない。最後に食べたのはバスの中で食べた昼ご飯だった。

24時をほんの数分過ぎてタクシーは上野山荘についた。
市街地からはもうずいぶん離れていた。
インターホンを鳴らす。
ところが出てきたのは明らかに宿の人ではなく宿泊者だった。
「泊まりたいんですけどいけますかね?」
「ちょっと待ってくださいね、聞いてきます」
数分後、
「あの、だめらしいです。部屋は空いてるんですけど、24時までしか人を入れたらだめなルールなんです」
「え、そうなんですか!?」
高齢だった上野夫妻を夜中起こしてはいけないと、旅人たちが独自に決めた自主ルールらしい。
だが上野夫妻は亡くなられており、別に管理人がいる。
奥からどなり声が聞こえる。
「人を入れたらだめって言ってるでしょ!!!!」
またやってしまった!バスターミナルについたらすぐ来るべきだった!
今日は野宿か。
別に野宿でもいい。そうやってずっと自転車で、バイクで、日本を旅していた。
海外は犬が怖い。犬がいなければどこでもいい。
「寝袋は持ってるんで、玄関先でいいから寝かせてもらえないですかね……」
「だめだと思います……」
その時もう一人宿泊者が出てきた。
「あの、俺達明日国立公園行こうと思ってレンタカー借りてるんです。そこの中でよかったらどうですか?」
やった!藁をもすがる思いとはこのことだった。
車に乗り込み寝袋を敷いて寝ることにした。これで十分だった。

その時タクシーがまたやってきた。
降りてきたのは朝リオガジェゴスでみた3人組だった!
先ほどの私と全く同じやり取りをし、まったく同じように怒鳴られていた。
そして車にやってきた。
「あ、お疲れ様っす」
「あ、リオガジェゴスのバスターミナルにいた人ですよね」
「やっぱりどこも満室やったんですね」
「ここの宿、なかなか強烈ですね。南米ってこんな感じなんですね」
「いや、ここだけやと思いますよ」
4人で車の中で寝た。
その日は私の28回目の誕生日だった。

日本に帰国してからこんな記事を見つけた。
ブエノスアイレスで泊まった上野山荘でのことだった。
思いっきり私が写ってるやん。えらい顔むくんどんな。
【45泊もした上野山荘別館とは一体何だったのか?(T平)】
http://theiyko.blog.fc2.com/blog-entry-375.html

そしてこんなブログを見つけた。

【超有名日本人宿、上野山荘の『心』とは?】
超有名日本人宿、上野山荘の『心』とは?

超有名日本人宿「上野山荘」の「心」はどこに行ったのか?
https://ameblo.jp/knocktheworld/entry-11773488007.html

3人組の2人が書いたブログだった。
「さっき来た人も追い返されました」
のさっき来た人とはまさしく私である。
コメント欄は大荒れだが……(昨日気づいたのだが、コメントはパソコン版からしか見ることができない)。
私は「ちょっと遅れたぐらいで泊めてくれたってもいいのに!」とは特に思ってない。
「まあ運が悪かったなー野宿でいいか~ハッハ」程度にしか思っていなかったのでまあ許してやってほしい。
だって俺翌日ここに泊まってるし。

今思えばなんで予約を取らなかったのだろう?
そうだ、当時は予約サイトに安宿が出てくることはほとんどなく、バックパッカーが行くような安宿は結局飛び込みで行くしかなかったのだ。
当時もうすでにスマホもtwitterもInstagramもあったのに!
でも時代は確実に変わっている。

ちょうどこの辺でキリがいいので一回区切っておこう。
南米旅行編はまだまだ続く(予定)。
ではまた来年!よいお年を!

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