第659号 梅雨も明けましたねの巻

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【子どもに人気は「規格外の10B鉛筆」太くて見栄えがいい「僕のはこんなに濃い」友達に自慢】系クラブチームの左大文字ラクロスクラブは7月11日、淀川河川公園島本グラウンドにて定期練習を行った。


先週までのぐずついた天気から打って変わって晴れとなり、そろそろ梅雨はあけそうな気配だ。
「雨は雨で嫌やけど晴れてきたらそれはそれで暑いわ」とどのみち愚痴りながら今日も14名のメンバーが集まった。
しかも、ゴーリー3人となかなかの豪勢だ。
今回ゲストに来てくれたのは島根大卒の宮成君だ。


島根大はメンバーが少なく、チーム全体で選手13人、同期はなんと自分だけだそう。
また24歳とぴちぴちの若さにメンバーは驚愕、今年50歳になる伴仲氏は「ダブルスコア超えてるやんけ……」とちょっとセンチメンタルに浸っていた。


「再来週からリーグ戦始まるので意気込みをどうぞ」と志水氏に言われ、「え、もう入部確定ですか?」と一瞬たじろぐシーンも見られた。
もちろん強制入部なんてことはないのでまた遊びに来てくださいね。

■今週の連載小説『南米旅行記 パタゴニア編その6 フィッツロイ』

エル・カラファテを出発したバスは3時間半ほどでエルチャルテンに到着した。
バスのチケットには席の番号が記載されていた。
私の席にはカップルがイチャイチャしながら座っていた。
所要時間が短いためか自由席になっているようだ。
私は適当に空いている席に座った。

バスはアルゼンチンの国道40号線を走る。
アルゼンチンの景色はどこまで行っても基本的にはあまり変わることはない。
ただただ単調な草原が延々と続いている。
だがアンデスの東側を通る国道40号線だけは違う。
「ルータ・クワレンタ」と呼ばれるこの道は、荒野を走りつつ絶景が次々と現れる。
全アルゼンチン人が憧れ、そして誇りに思っている道らしい。
アメリカでいうところのルート66のような感じだろうか?

私はあることに気づいた。
パタゴニアで乗るバスは例外なくすべてフロントガラスが割れていた。
バスは未舗装路を時速100キロで走る。
フロントガラスが割れるのは必然なのだろう。
荒野を走っていると遠くに小さい村が見えた。
あれがエル・チャルテンだ。背後にはとがったアンデスの山々が見えた。
その中の一つはフィッツロイと呼ばれる。
アウトドアメーカー・Patagoniaの創業者はこのフィッツロイをえらく気に入ったそうだ。
そうしてこの山々をそのまま自分の会社のロゴマークにしたらしい。
山々の形はPatagoniaのロゴマークそのままだった(当たり前だが)。

天気は快晴だった。
バスが村に入っていくとき添乗員が言った。
「今日は一年のうち何回もないほどいい天気です。ぜひ到着したらすぐ山に登ってください」
どうやらこんなにいい天気になることはそうそうないらしい。
村について適当に宿をとった。
ただ適当にメインストリートをまっすぐ歩き、突き当りにちょうど宿があった。
そこに泊まることにした。
日本人旅行者が置いていったであろう日本語の自己啓発本が一冊本棚にあった。
インディオと白人の混血らしき宿の女主人はこう言った。
「今日はもう最高の天気よ。いますぐ山に登りなさい。明日にはもう駄目になるから」

時刻は昼過ぎだったと思う。
一番人気のロス・トレス湖に行くルートは所要時間9~10時間らしい。
いくらパタゴニアの昼は長いと言っても今から行けば日没に間に合わない。
別のルートに行くことにした。
地球の歩き方には3つのトレッキングコースが書かれていた。
1つ目が前述のロス・トレス湖である。
2つ目がセロ・トーレという山の下にあるトーレ湖までのコース。
これが所要時間6~8時間と書かれていた。これも少し時間がかかる。
3つ目がエル・チャルテンの南にある、ロス・コンドレスという丘に登るルートだ。
ここまでは所要時間1時間15分~2時間と書かれていた。
3つ目のコースに行くことにした。

ラテン圏らしくスーパーにはシエスタタイムがあった。
シエスタに入る直前スーパーでパンとバナナを買って丘に登ることにした。
アルゼンチンでは闇両替の件でとにかく金欠だった。
この国でクレジットカードは使えない。
ずっとパンとバナナばかりの生活だった。
たまにスモモやリンゴを買うだけだった。
それでも腹は膨れる。

丘には30分もかからずに到着したと思う。
逆に物足りなかった。
登山道はそこから先まで続いていた。
そのまま登ってみることにした。
どこまで続いているのかはわからないけど、18時ごろまでにルートの終点までに到着できなければ引き返そう。
人とすれ違うことはほとんどなかった。
それなりにマイナーなルートなのだろう。
地球の歩き方のエル・チャルテン周辺地図を見ても、どこを歩いているのかはさっぱりわからない。
ただし分岐は全くなかった。
村まで戻るのは簡単そうだ。
うっそうとした森の中を上り坂は続く。
突然森林限界を抜け視界が開けた。
登山道はそこで終わっていた。
岩場を下っていった眼下には小さな氷河湖がみえ、その先にはフィッツロイが見えた。
雲一つない晴天だった。
氷河湖まで下りていく道はなかった。
湖まで下りていこうと思ったが途中で挫折し、そのまま山を見ながらパンとバナナを食べた。
そして昼寝をした。
先日のパイネ国立公園でもそうだ。
山々を見ながら自由気ままに昼寝することほど楽しいことはない。
もうそろそろ戻ろう。

宿の部屋には6畳ほどの部屋に2段ベッド2つが置かれていた。
戻れば同室にイスラエル人の男性2人がいた。
2人は例にもれず徴兵が終わってパタゴニアに来たそうだ。
いきなり何故か上半身裸になり部屋で腕立て伏せを始めた。
狭い部屋でごつい外国人が腕立てをしているのはなかなか暑苦しい。

バスの添乗員や宿の女主人の言う通り、翌朝は曇天だった。
地平線から天頂まで、分厚い雲が空を覆いつくしていた。
私は宿においてあった本を読みながら、ごろごろすることにした。
だが時間を重ねるごとに雲が薄くなっていき、いつの間にか快晴になった。
パタゴニアではこんなことがよくあった。
空を眺めるのが好きだった。
雲を眺めるのが好きだった。
二つとして同じ雲はない。そして一刻一刻その雲は形を変えていく。
日本では、朝は快晴だったのに次第に雲行きが怪しくなっていくことがよくある。
島国と大陸ではこんなことすら違う。
ただし地球温暖化のせいか日本の気候も少し変わった気がする。
それかただ単に私に空を眺める余裕がなくなったせいだろうか?
今から行けばロス・トレス湖にいける。行こう。

道はずっと平坦だった。
これが4時間ほど続いた。
10時間山登りと考えたらかなりつらい。
だがこれは一般的な日本人が想像する山登りとは違ったものだった。
私が生まれ育った大阪府の南河内地域では、よく金剛山という山に登る。
それも決まって冬だ。
私は今日の今日知ったのだが、この耐寒登山と呼ばれる謎の行事は大阪だけにしかないらしい。
行先は必ず金剛山なのだ。
小学校で金剛山に登り、中学校で登り、高校で登り、さらに部活で登る。

登山者数が日本一の山はどこか?それは富士山である。
では二番はどこか?それが金剛山なのだ。
この山では全国でも珍しい回数登山というものが盛んだ。
何のことはない。山頂にスタンプを押してくれるところがあり、スタンプカードを買えばそこにスタンプを押してくれる。
10回分500円だった。
山頂にはある回数以上登った人の名前が掲示されている。
多い人では1万回以上登った人もいることで有名なのだ。
そこで結構な人が競争に目覚める。
「私は○○回登った」
「私は××回だ」
そんな会話がそこがしこで繰り広げられている。
この競争に目覚めた人は他の山には目もくれず、ただ金剛山に登り続ける。
私の地域ではそれが当たり前だった。
山に登るということはイコール金剛山に登ることだった。
結構な大人になってから、こんな制度があるのは金剛山だけと知った。
かといって他の地域に行くには交通費がかかるため、あまり山に登らなくなっていた。
でも今は違う。地球の裏側で山登りを楽しんでいる。
これを西洋ではトレッキングというらしい。
日本語に直せば「山歩き」とでもいうのだろうか?
ただし厳密に対応する日本語がないため、これを表現するのは難しい。
江戸時代までは山は修行か柴刈りで登るものだった。
アクティビティとしての山登りというものは存在しなかった。
ところが明治時代に入って外国人が日本に住み始めた。
神戸に住んでいた彼らが六甲山に登り始めたのを、日本人がまね始めたのが日本での登山の始まりなのだ。
21世紀になった今でも、日本人と西洋人の間では山登りのとらえ方が違っているのかもしれない。

最後に急峻な登りが1時間ほど続いた。
そこを乗り越えると目的地のロス・トレス湖についた。
パイネ国立公園のトーレス・デル・パイネと似たような景色だった。
偏西風がフィッツロイにあたり、まるで煙を吐いているように見えた。
フィッツロイの別名は「煙を吐く山」なのだ。
湖面には風は全くなかった。青い水面にはフィッツロイがきれいに映っている。
ただただ青くきれいだった。次第に風が吹いてきて水面が揺れ始め、鏡張りの景色は見れなくなった。
そろそろ帰ろうか。

地球の歩き方に載っている地図はおおざっぱすぎるため、観光案内所で地図をもらっていた。
ポケットに入れていた地図をどこかで落としたらしい。
まあいい、来た道を戻ればいい。
これが大きなミスだった。
なぜか人とすれ違うことが全くなかった。
あれ?湖の横を通らなかったっけ?湖出てこんぞ。
どうやら分岐を間違えてしまったらしい。
しまった。
あたりは暗くなりかけている。
来た道を戻ればおそらく日没に間に合わない。
道は突き当りに出た。
右にはまたフィッツロイが見えた。
煙をはくどころか、ほとんど雲で見えなくなっていた。
ということは右に行けばトーレ湖ということか。
ということは左に行けばエル・チャルテンに戻れるということになる。
一か八か、このまま行こう。
これまで数時間人とすれ違っていなかったが、日没寸前に軽装の日本人とすれ違った。
そして10分もたたずに村の裏手に出た。
ああ、帰れた。
さっきすれ違った日本人はあの時間からいったいどこに行こうとしていたのだろうか?
22時。日本ではもう100パーセント遭難している。
パタゴニアだから、助かった。

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