第665号 FOの巻

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【東京都の40代女性(経理)、職場のパソコンOSがWindows97で怒りの辞職、帰宅すると下着が汗で塩の跡に】系クラブチームの左大文字ラクロスクラブは9月5日、淀川河川公園鳥飼上グラウンドにて定期練習を行った。
8月が終わったとたんに何故か急に涼しくなり朝は寒いぐらいだった。
ここ数日雨だったが今日は晴れ。
久しぶりの鳥飼グラウンドでは、前の時間にCYLとGoldzealerが合同練習をしていた。
やはり日曜の鳥飼はラクロス密度が高めだ。

今日集まったのは6on6がギリギリできない人数の12名だった。
それでも去年に比べたら人数はかなり多い方だ。
爽やかな青空の下、2on2ブレイク練や4on4、4on3などで充実した練習をこなし、一部のメンバーはやる気満々で練習終了後もフェイスオフの練習をしていた。
来週は初のグラウンドと淀川河川公園赤川グラウンドだ。
私は電車で行けるところならちょっとテンションが上がる。

■今週の読書室 一ノ瀬泰三「地雷を踏んだらサヨウナラ」講談社文庫

終戦記念日、すなわち8月15日にあるニュースが世界中を駆け巡った。
『カブール陥落』
退避する各国の飛行機に人々が押し寄せる光景はベトナム戦争終結をもたらしたサイゴン陥落と全く同じ光景だった。
2001年にアメリカで起こった同時多発テロの首謀者、ビンラディン容疑者がアフガニスタンに逃げこんだ。
その報復のためにアメリカがアフガニスタンに介入してから20年間、2兆ドルという天文学的な額の軍事費を費やし、アフガニスタンは2001年以前の状態に戻った。

世界の警察を自負するアメリカはしょっちゅう余計なことをする。
そしてそれはだいたいいつも同じパターンだ。
中国の国共内戦では中国国民党に肩入れし、戦力そのものは圧倒していたものの国民党は腐敗が激しく、あっけなく共産党に敗退し中国は赤化した。
イランでは石油資本を独占し莫大な利益を上げていたアングロイラニアン石油を国有化したモサデク首相を追放し親米のパーレビー政権を打ち立てる。
だが一般市民の生活は一向に良くならずイラン革命が起こってしまう。
北ベトナムが南ベトナムで活動する南ベトナム解放民族戦線を支援するために作った「ホーチミン・ルート」はラオスやカンボジアを通過していた。
それを遮断するためにラオスやカンボジアを攻撃した結果、逆に共産主義勢力を勢いづけインドシナは全域が赤化してしまった。
今回のアフガニスタンも同じパターンだった。
アメリカが正義の味方をしていたのは朝鮮戦争の時ぐらいではないだろうか?
実質はアメリカ軍なのだが、正規の『国連軍』が結成されたのは朝鮮戦争だけである。

サイゴン陥落と同じくプノンペン陥落も世界史に残るシーンである。
調べていく中でこの本に出会った。
紹介するこの本はカンボジア内戦に従軍していたフリーカメラマンの手紙や日記を一冊の本にまとめている。
バングラディシュは昔パキスタンの一部であり、東パキスタンと呼ばれていた。
だが民族も違えば言語も違う、イスラム教というくくりだけでパキスタンとひとまとめにされていたバングラディシュは独立戦争の結果パキスタンより独立する。
筆者はまずそのバングラディシュ独立戦争を取材し、その後内戦中のカンボジアにわたる。

カンボジアはベトナム戦争において『中立国』だった。
だが領土内をホーチミン・ルートが通過していた。
シアヌーク国王(正式にはその時は国王ではなく国家元首だった。この辺はかなりややこしい)が北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線(以下・ベトコン)に対し、ホーチミン・ルートの通過を認める代わりにカンボジア領内での『解放』運動をさせないと約束させたからだと言われている。
アメリカは当然そのことが気に食わなかった。
国王が中国を外遊中にロン・ノル将軍にクーデターを起こさせ国王を追放、親米政権を打ち立てさせる。
中国の仲介でシアヌーク国王と当時弱小勢力だったカンボジアの共産勢力・クメールルージュとの統一戦線が結成される。
カンボジア国民から絶大な支持を受ける国王と統一戦線を結成したことでクメールルージュは一気に支持を広げ、ついには全土を『解放』し、カンボジアは赤化してしまう。
そう、いつものパターンである。

カンボジアにわたった著者は、アンコールワットに魅せられ、近くのシェムリアップ村に滞在する、
アンコールワットはクメールルージュに占領されていたが、シェムリアップは政府軍のものであった。
すなわち最前線であったのだ。

「オーイッ、ベトコンヨー、メシ食いにこいや!」
「そつはできネー、俺達もいまから食うところだ!お前こそ食いにこいヨー、ウイスキーもあるでヨー!」
「ヘネシーだったら行くぞー!
「残念ながら、シアムリアップのマーケットで買ってきたカンボジアン・ウイスキーだ!」
というやり取りを政府軍兵士とクメールルージュがするほど和やかな雰囲気だったらしい。
(※現地人はクメールルージュのこともベトコンと言っていた。タリバンとISの違いが判らないのと同じである)
ちなみに私はこの茶番的なやり取りを『独立愚連隊・西へ』という映画にも見た。
案外戦争というものはそんなものかもしれない。
ちなみにこの映画は加山雄三の初出演映画だ。

クメールルージュの占領する解放区と政府軍占領地域間での住民の往来はある程度自由だったらしい。
解放区の実態はベールに包まれており、解放区の取材はカンボジアで活動するカメラマンにとっての最大の目標だった。
各新聞社やフリーカメラマンがこぞってアンコールワットを目指した。
クメールルージュに占領されて以降アンコールワットの写真を撮ったものは誰もいなかった。
撮影に成功すれば世界的なスクープ間違いなしであった。
政府軍がアンコールワットまで1.5キロメートルのところまで迫ったこともあったが、結局押し戻された。
シェムリアップから望遠レンズを通してアンコールワットを日々見ていた著者は思いを募らせる。
そして解放区への単独潜入を試みた著者は、クメールルージュ兵士に一度つかまったが、フィルムを抜かれただけで解放された。
著者はその後国外追放処分となり南ベトナムへ渡るが、アンコールワットへの思いを捨てきれず、ボクシングのコーチとしてビザを取得し韓国船籍の弾薬輸送船に乗りカンボジアに再び渡る。

1973年11月27日朝日新聞がプノンペン発のスクープを報じた。
「日本人カメラマン、アンコールワット遺跡近くで行方不明」「共産軍の捕虜に」「解放勢力が死刑宣告か?」
著者の両親はかたくなにそれを信じることはなかった。
だが1982年、TBSの協力により両親の『ベトナムにより解放された』カンボジアに訪問することが実現する。

「炎天下、私たちを乗せた自動車はプラダック村に着き、泰造が眠っているといわれる墓地に案内された。
二人の村人によって掘り上げられた”なきがら”は紛れもなく我が子泰造であった。
乾期と雨期の繰り返しのなかで肉体もすでに朽ち、本当にカンボジアの土となっていたが、わずかに面影を残す頭蓋骨は私たちになんと語っているのか。
『父さん、母さん、はるばる来てくれて有難とう。好きな仕事に命を賭けて死んだ息子のこと、悲しむことないョ』」

イラクにせよ、シリアにせよ、アフガニスタンにせよ「そんなところに行くのが悪い」と言うのはたやすい。
だがわたしはそこに青春と命を懸けた若者ののことを思えば何も言えない。
彼は26歳で行方不明になった。
私はもう彼のことを若者といっても違和感のないほどの年齢になってしまった。

「読売新聞プノンペン特派員が、向こう側と特別コネがあり、一緒に行けるよう、話も進んでいるそうですが、著作権のことが面倒なので、自分一人で、まず狙うことにしました。
旨く行かなかったら危険はそう何回もせず、サッと諦めて読売に従います。
旨く撮れたら東京まで持っていきます。
もし、うまく地雷を踏んだらサヨウナラ!」

 

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