第666号 ゾロ目ですの巻(本文とは関係ございません。)

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【愛媛県が営業時間の短縮要請に応じない店の名前発表「いきなり熟女」など8店】系クラブチームの左大文字ラクロスクラブは9月12日、淀川河川公園赤川グラウンドにて定期練習を行った。
初のグラウンド、行ってみたら遊歩道とグラウンドがありえないほど近く、ボールが飛んでいくたびに通行人に当たらないかひやひやした。
そして天気はあいにくの雨、グラウンドにはぬかるみゾーンが出現した。
ボールがぬかるみにはまればOFとDFはいったん休戦、ある者はずっこけ、そして仲良くよちよち歩きでボールを拾いまたプレイを始めるのであった。
今週も6on6がギリギリできない人数だったので、後に控えているELKSメンバーに「ちょっとやってく?」なんて誘いながら雨の中楽しく練習を行った。

来週19日は今シーズン第4試合、OLC戦が行われる。
ここで勝てばファンリーグ決勝戦に進める。
だがここで負けてしまえばその決勝戦のオフィシャルをしなければならない。
「そんな屈辱的なことしたないわ」とぼやきながら勝利への誓いを交わすのであった。

■と思いきや試合が突如中止

9月19日のOLC戦が中止・延期されることが14日火曜日に突如発表された。
施設側の都合とのことだが理由は一切不明。
コロナの影響かどうかもよくわからない。
「どーする?練習する?グラウンドどっか空いてる?」と突如暇になった日曜日を持て余し、ラクロスバカなメンバーたちは右往左往している。
試合、できるのか?

■今週の試写室『日本のいちばん長い日』(1967)

いまの日本の状況をよく表しているとネットの掲示板に書かれていたので見てみた。
「我等アメリカ合衆国大統領、中華民国政府主席、およびイギリス帝国総理大臣は、数億の国民を代表して、日本に対し、今時の戦争を終結せしめる機会を与えることに意見の一致を見たり。アメリカ、イギリス、及び中華民国の巨大な陸、海、空軍は、日本に対し最後的な打撃を加える態勢を整えたり」
というポツダム宣言の内容から始まる。
このポツダム宣言を日本側が海外放送の受信により1945年7月26日午前6時に知ることとなる。
翌7月26日にはポツダム宣言をどう取り扱うかという閣議が開かれた。
ポツダム宣言はアメリカ、イギリス、中華民国国民政府の名前で出されたが、その実はアメリカ、イギリス、そしてソ連によって取り決められたことだった。
日本は当然このことを知らなかった。
ポツダム宣言にソ連がかかわっていることを知らずに『中立国』であるソ連に和平工作の仲介役を依頼していた。
「現在我々は戦争の仲介役をソ連に求めているわけであるから、とにかくソ連が何か言ってくるまではこれを一方的に拒否せずにしばらく待っているのが一番いいと思います」
という東郷外相の発言にだれも反対するものはなく、ポツダム宣言に対しては静観することと決まった。

これをどう発表するかで閣議は紛糾する。
そしてその結果、何も発表しないのはまずいから、政府の公式見解は発表せずに、新聞はできるだけ調子を下げて取り扱うように指導し、政府はこの宣言を無視するらしいと付け加えても差し支えないとの意見の一致を見た。

ところが各前線部隊はポツダム宣言の詳細をすでに知っていた。
前線部隊から「なぜ政府はポツダム宣言に明確に反対をしないのか」という電報が陸軍本部にしきりに届き始めた。
やむなく政府はポツダム宣言には明確には答えないが、新聞記者の質疑応答にこたえる形で意見を表明することになる。
鈴木首相は「ポツダム宣言はカイロ宣言の焼き直しであるから、これを重要視しない」と答えた。
だが質疑応答の中で「重要視しない」という発言を繰り返す中で「黙殺」という言葉が出る。
新聞各紙はこれまでとは打って変わり『黙殺』を繰り返し報じた。
ついには海外放送により『黙殺』が全世界を駆け巡ることになる。
だが外国では『黙殺』が『無視』になり、そして『拒絶』として報道され、アメリカとイギリスの世論が著しく硬化した。

8月6日広島に原子爆弾が投下された。
「日本がもしポツダム宣言を受諾しない場合には即時おそるべき報復を加える」という警告が実際のものとなった。
「この原子爆弾は戦争に革命的な変化を与えるものである。日本が即時降伏に応じない限りさらにほかの場所へも投下する」
2日後の8月8日にはソ連が参戦した。
8月9日戦争指導会議が開かれ、鈴木首相は「広島の原爆とソ連の参戦で戦争の継続は今や不可能であり、どうしてもポツダム宣言を受諾するより他に方法はないと思われるが、各自の意見を述べていただきたい」と言った。
この会議は紛糾した。
そしてこの会議中に長崎に原爆が投下された。
そしてこの会議は意見の一致を見ず、再び閣議が招集された。

陸軍は以下の主張を唱えた。
「第一、天皇の地位の保証
第二、日本本土へ上陸する占領軍はできるだけ小範囲の小兵力でしかも短期間であること
第三、日本軍の武装解除は日本人の手によって自主的に行うこと
第四、戦争犯罪人の処置は日本人に任せること
以上の意見が受け入れられない場合はあくまでも戦争の継続を主張する」
鈴木首相は「天皇の地位については同感だが、ほかの3条件は連合国が拒否するに違いない。絶対自適な条件以外は差し控えたい。この機を逃せば永遠に和平の機会のを逃す」と主張した。
それに対し阿南陸相は「だからこそ本土決戦が必要になってくる。本土決戦によって戦局の好転を待ち、それを和平の機会とすればもっと有利な条件を敵側に認めさせることができる」と主張した。
豊田軍需大臣、石黒農商大臣、古日山運輸大臣らが次々と意見を述べた。
石黒農商大臣は「今年秋は昭和6年以来の凶作が見込まれており、農民以外はほとんど餓死となる。とても戦う余力は……」と述べた。
そこでも阿南陸相は食い下がる。
「かかる事態は誰もが十分承知のはずである。この実情の下でもなお戦い続けるのが今日の決心であると思う!」
激論3時間に及んだが結論を得ずに御前会議を開くこととなった。
そこでも結論を得なかった。
「これ以上戦争を継続することはわが民族を滅亡させることになる。速やかに終結せしめたい」と天皇は決済された。

翌8月10日午前6時スイスとスウェーデン公使を通じて「天皇の大権に変更を加えるがごとき要求はこれを含んでいないものと了解して」という条件付きでのポツダム宣言受諾の電報を発信することになる。

8月12日0時45分、日本はサンフランシスコ放送を傍受した。
それは連合国の回答であった。
「天皇及び日本国政府は連合国司令官にsubject toする」というものであった。
この「subject to」の解釈によってまた日本政府は揺れる。
陸軍の解釈は「絶対的な隷属」であった。
だが外務省は「その制限下に置かれる」と解釈した。
閣議はまたもや紛糾し再び御前会議が開かれることになった。
その傍ら「あと2000万!2000万の特攻を出せば日本は必ず、必ず勝てます!」と東郷外相に対し大西軍令部次長は言った。

「陸軍を代表して申し上げます。もしこのままの条件で宣言を受諾するならば国体の護持はおぼつかない。よって是非とも敵側に再照会をしもしそれが聞き入れられない場合には、一戦を試み、死中に活を求める以外に道はございません」と阿南陸相は言った。
不気味が静寂が流れた。
そして天皇は静かに立ち上がられた。
「反対論の趣旨はつぶさによく聞いた。しかし私の考えはこの前も言った通りで変わりはない。これ以上戦争を続けることは無理である。陸海軍の将兵にとって武装解除や保障占領は耐えられないであろう。国民が玉砕して国にじ殉ぜんとする気持ちもよくわかる。しかし―しかし私自身はいかようになろうとも、国民を―国民に、これ以上苦痛をなめさせることは私にはしのびえない。できることは何でもする。私が直接国民に呼びかけるのが良ければ、マイクの前にも立つ。陸海軍の将兵を納得させるのに、陸軍大臣や海軍大臣が困難を感ずるのであれば、どこへでも出かけてなだめて説き伏せる」

なんとここまでがオープニングである。
ここまで約20分。
終戦が決まった。
これを聞いたものは大臣から将校にいたるまでことごとく涙を流した。
時は1945年8月14日。

スウェーデンとスイスに電報を打つ時間もある。
ところがまたもめる。玉音放送の文章だ。
問題となったのは「戦線非にして」という文章だ。
「私は『戦線非にして』でいいな。もはや我が国は軍事的には崩壊してしまっておる」と米内海軍大臣。
ところが阿南陸相はかみつく。
「個々の戦争では負けたが最後の勝負はまだついておらん。負けたとすれば補給戦の上で負けただけのことである。開戦以来3年半陸軍は小さな島々で戦っただけで一度も本格的な開戦をやっておらん。本土決戦こそその開戦と称すべき勝負であった」
「では陸相はこれまでの戦争をことごとく小さな局地戦にすぎぬといわれるのか?20万5000の兵力を投入してそのうちの戦死者20万。フィリピンレイテ島のこの悲惨な戦闘を単に補給戦に負けたにすぎぬと、陸相はその責任と他の部門に転嫁されようとするのか!数え上げたらきりがない。ビルマには23万6000を投入して16万4000、沖縄には10万2000を投入して9万。いや沖縄では軍人だけでなく9万2000の一般国民までが……」
「自分の言いたいのもその点である!多くのものがなぜ涙をのんで死んでいったのだ。結果的な批判はなんとでも言える。しかしこれは誰にしても日本を愛し日本の勝利を固く信じたればこそのことである。しかるに負けたというこの『戦線非にして』ではこれまで死んでいった300万の人々になんと申し訳が立つ!またいまだに戦っている700万の部下にはなんとしてでも栄光ある敗北を与えてやらねばならん!それがせめてものわれわれの責務ではないか!これはあくまで『戦線非にして』ではなく是絶対に『戦局好転せず』と訂正すべきである!」
「いや、あなたがどのように言われようとも私はそうは思わぬ!」
天皇の玉璽を押すための清書がそのたびに書き換えられた。
そして電報を打つのも遅れた。
清書は最終的にはつぎはぎだらけになった。

鈴木首相「今日の夜の放送はとても無理ですよ。国民には予告も何も……」
「それは明日の朝7時では?とにかく放送は一刻でも早い方が」
「いやそれは16日にしてもらいたい。この放送は外地にあらゆる部隊にまで聞かせなければならない。特に第一線は相手側の武装解除を受けるのであるから、十分納得させる時間が必要である」
「明日の朝7時では聴取率が大変低いですね。ことに農民は朝が早いし……」
「それでですね、今晩のニュースの時間にその予告をして明日の正午に放送をすると」
放送は翌8月15日正午に決まった。

ところがまたもめる。
「天皇陛下にマイクに立っていただくのはあまりにも恐れ多い!」
生放送にするのか?録音にするのか?
場所はNHKか宮内省か?
わざわざ天皇にNHKまで出向いていただくのは恐れ多い。
宮内省で録音することに決まった。
天皇が敗戦の詔書に玉璽を押し、玉音放送を録音している瞬間も特攻隊が敵機への特攻を続けているのであった。

そして陸軍の一部が良からぬことを考える。
「録音盤を奪ってしまえば!」そして前代未聞のクーデターが発生するのである。
宮城事件というのだが後半はこれを描いている。
結論は教科書の通りみんな知っている。
だがそこに至るまでにどれだけ会議が紛糾したのかを白紙状態から想像するのは難しい。
このグダグダ具合はたしかに現在の日本の状況に似ているものがあると思う。
何度やっても結論が出ない会議、誰も取らない責任、開戦の原因からしてそれであった。
ソ連が対日参戦の準備を着々と進め、日ソ中立条約の破棄を宣告し、ポツダム宣言にソ連がかかわっていることも知らず、満ソ国境にソ連軍が大量集結しているという報告を無視し、日本政府はのんきにソ連への和平仲介を依頼し続けていた。
どうするか結論の出ない会議を続けている間に長崎に二発目の原子爆弾が投下された。
陸軍は『戦線非にして』という文章にしつこく食い下がり、「あと2000万の特攻を出せば」と言い、そして一部は敗戦を認めずにクーデターを起こした。

そもそも日本軍は満洲と中国で政府の再三の停戦命令を無視して戦火を拡大させてきた。
関東軍は満洲国を勝手に建国した。
満洲国を承認することを拒否した犬養首相は五・一五事件で凶弾に倒れた。
そしてワシントン軍縮会議の批准した政府を「統帥権干犯である」として攻撃したのは野党とマスメディアであった。
日中戦争開戦直前には中国各地で日本人居留民が殺される事件が起きた。
だが日本軍諜報部が中国人を買収し日本人を襲撃させたことが戦後明らかになった。
日本軍が刃を向けていたのは最初から最後まで連合国ではなく日本そのものだった。
そして暴走の挙句国際連盟を脱退した松岡外相を拍手喝采で迎えたのはほかならぬ日本国民であった。

今のこの状況の責任はどこにあるのだろうか?
暴走した陸軍は今でいう政府、野党、専門家、企業、一般国民のどれなのだろうか?
我々はどこに向かっていくのだろうか?
それを思わずにはいられなかった。
しかし昔の映画は重厚で本当に面白いなぁ。

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