第132号 焼肉で暑気払い!左大文字の夏

夏休み系クラブチーム左大文字の面々も夏休みを迎え、かといってほかにすることもなくうだるような暑さのなか熱心に練習に励んでいる。4日の練習後には、暑気払いとして長岡京市内の店で100円ビールの焼肉屋パーティーも行った。
店は前々から沖中選手が目を付けていた100円ビールのある国道171号沿いの焼肉屋。しんどい練習のあとに、じっくりとビールで水分補給しようと、新マネージャーぎっしーを加えた有志12人が参加。
さっそく100円の生中を痛飲すると焼肉に集中。店の18歳のおねえちゃんと交流を深めながらもうるさく注文を続けていた。沖中選手は大好きなビールを前にすっかりと痛飲。5杯飲んでも500円と叫びながら8杯目に挑戦していた。
宴会後のテーブルで、ある一人のメンバーは「この夏最高の思い出となりそうです」とつぶやいていた。それでいいのか?
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「11日に海へ出動!参加者募集始まる」

ディズニーシー系クラブチーム左大文字の毎年恒例行事「海計画」が11日に実施されることがこのほどあきらかとなった。場所はまだ決められておらず、11日の練習後にミーティングが開かれ、そのまま出発となる予定。
海計画実行委員会(鶴原進委員長)では、当日の参加者を募集を5日から始める。参加希望者は、鶴くんまで。
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「16日は左大文字の日!送り火せまる」

左大文字の創立記念日を記念する伝統行事の「送り火」が16日に京都市内で行われる。
「送り火」京都の五山を赤々と炎が焦がし、京都の人々が左大文字のリーグ戦優勝を願う行事として、江戸期から始まった。当時はラクロスは「羅苦露須」とよばれ、アメリカの黒船来航とともに伝わったスポーツ。現左大文字のメンバーの先祖たちが京都最古のクラブチームとして元禄2年8月16日に左大文字羅苦露須倶楽部を創設したとされる(「古代羅苦露須史」より明名書房刊)。
創立記念日の送り火の日には、宴会が企画される予定。リーグ戦の勝利を五山の炎に祈りましょう。
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<今週の戦国武将②>
「真田昌幸」

「信玄の両目のごとし」と信玄本人に評された秀才武将の真田昌幸。信濃(長野県)の豪族として信玄に従った真田幸隆の三男として生まれた。武田家が勝頼の代となってからも、忠節を尽くし、よく勝頼を支えたが、長篠の合戦で、昌輝ら2人の兄が戦死。真田家の家督をつぐことになる。
武田家滅亡時は、諏訪衆の勝頼腹心たちから信濃衆として遠ざけられ、沼田城の守備に回されるうちに主家が滅びる。
のち独立し、上杉、北条、徳川の下で従いながら生き抜き、上杉家追従時には、息子幸村を人質として景勝のもとへ差し出した。このころから徳川とは領地上の仲が悪くなっており、沼田城攻防戦などでは徳川の大軍を二度追い払ったという戦功もたて、真田に昌幸ありと名が知られるようになった。
関が原合戦時には、息子の信幸とたもとを分かつ「真田二分の計」で真田家の存続を図り、自分と幸村は西軍につくことにした。上田城で徳川秀忠率いる3万8000の兵をくぎ付けにして、関が原に遅参させたのは、誰もが知る話であろう。だが西軍は敗北。戦犯として紀州九度山に幸村とともに流され、そこで幸村に「必ずもう一度乱が起こる。そのときは豊臣に力を」と諭して、一生を終えた。
息子幸村は大阪の陣で華々しい活躍を遂げて死ぬことになるが、真田の名をあげ家康をして「真田日本一の兵」と評された。
徳川という強敵に従うをよしとせず、生涯敵でありつづけた昌幸。家康にとっては一度として勝つことができなかった相手であった。関が原での秀忠をひどい勘気でしかりつけたのも、昌幸憎しの情がひどかったのも一因であったという。
(今週の筆者 仲屋聡)

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